なぜ店に入ると「いらっしゃいませ」と声をかけられるの?
江戸時代の客引きの呼び声が、「あなたに気づいていますよ」と伝える店員のあいさつに。返事をしなくても大丈夫な理由も解説します。
ざっくり言うと
「いらっしゃいませ」は、もともと「どうぞお入りください」と客を呼び込むことばでした。それが繰り返し使われるうちに、店員が客を迎えるときの決まったあいさつとして定着しました。
いまでは「ようこそ」という歓迎に加えて、「お客さまが来たことに気づいています、このあと対応します」という合図の役割も果たしています。客のほうは、特に返事をしなくても失礼にはなりません。
ことばの成り立ち
国立国語研究所の解説によると、「いらっしゃいませ」は二つの部分に分けられます。前半の「いらっしゃい」は、「来る」「行く」「いる」の尊敬語である動詞「いらっしゃる」が変化した形です。後半の「ませ」は、丁寧の助動詞「ます」の命令形で、相手に何かを丁寧にお願いしたり促したりする表現です。つまり直訳すると「どうぞおいでください」に近い意味になります。
「ませ」は省略されることもあり、その場合はくだけた「いらっしゃい」になります。商店街の八百屋や魚屋などで耳にする、威勢のいい「らっしゃい!」もその仲間です。
江戸時代の客引きの呼び声から
『精選版 日本国語大辞典』では、「いらっしゃいませ」の古い用例として、1779年ごろの洒落本(遊里などを描いた江戸時代の小説)に出てくる「サアいらっしゃいませ」が挙げられています。国立国語研究所の解説も、江戸時代の書物で、見世物の客寄せが道行く人に立ち寄るよう呼びかけることばとして「いらっしゃい(ませ・まし)」が使われていたと紹介しています。
同辞典には、明治時代の1886年の小説で、訪ねてきた人を迎えるあいさつとして「オヤ入らっしゃいませ」と使われている例も載っています。客を呼び込むことばが何度も繰り返し使われるうちに、来た人を歓迎する気持ちを広く表すあいさつとして定着していったと考えられています。
もう店の中にいるのに言われるのはなぜ?
旅行者がよく不思議に思うのが、「すでに店に入っているのに、なぜ『どうぞおいでください』と言われるのか」という点です。国立国語研究所によると、これは「おはようございます」と同じように、もとの意味をいちいち意識せずに使うあいさつ表現になっているからです。
同研究所は、このあいさつには「あなたが来たことに気づいていますよ」という合図の働きがあると説明しています。たとえば混み合った飲食店で店員の姿が見えなくても、奥から「いらっしゃいませ」と聞こえれば、客はこのあと対応してもらえると分かって安心して待てます。
さらに興味深いのは、「いらっしゃいませ」が店員と客という役割に結びついたことばだという点です。同じ店に取引先の業者が来たときは「こんにちは」や「お疲れさまです」などが使われ、「いらっしゃいませ」とは普通言いません。また、店員が休みの日に自分の店で友だちに会っても、「いらっしゃいませ」とは言いにくいものです。このことばは、店員として働いているときに、客に向けてだけ使われるあいさつなのです。
『日本国語大辞典』も、「いらっしゃいませ」に「来るよう促す丁寧な表現」と「あいさつのことば」という二つの意味を載せています。呼び込みから歓迎のあいさつへ、という変化が辞書の記述にも表れているわけです。この解説を書いた国立国語研究所の研究者は、日常会話を録音・記録した「日本語日常会話コーパス」の作成に携わり、ことばを使って人が何をしているか(あいさつする、相手の存在に気づいていると示す、など)を研究しています。「いらっしゃいませ」は、まさにそうした「ことばで行う行為」の分かりやすい例だと言えます。
訪れた人が戸惑うこと
スーパーやコンビニ、飲食店では、店に入ったときだけでなく、店内を歩いているときにも、あちこちから「いらっしゃいませ」が聞こえてきます。日本に来たばかりの人の中には、その多さに驚いたり、返事をしなければと焦ったりする人もいます。観光メディアのMATCHAも、インドネシアから来た人がスーパーで「いらっしゃいませ」の多さにびっくりする様子を例に、このあいさつを紹介しています。
でも心配はいりません。「いらっしゃいませ」は店員から客への一方通行のあいさつで、客は返事をしなくても大丈夫です。文化庁の「生活者としての外国人」向け日本語教材の買い物の会話例でも、店員の「いらっしゃいませ」に対して、客は返事をせずに「すみません、これ試着してもいいですか」と用件から話し始めています。
こうしたやりとりに慣れていない人にとっては、声をかけられたのに黙っているのは冷たく感じられるかもしれません。でも日本の店では、店員があいさつをし、客は自分のペースで店内を見て回る、という形がごく自然です。店員もいちいち返事を期待しているわけではないので、気楽に受け止めて大丈夫です。文化庁の教材の授業案でも、大型店とそれ以外の店での接客の違いを話し合う活動が組まれていて、店員とのやりとりは日本で暮らす外国人にとって身近な学習テーマになっています。
「いらっしゃいませ」の後に続くことば
店員のことばは「いらっしゃいませ」だけではありません。文化庁の教材の会話例には、買い物中によく聞く丁寧な決まり文句が詰まっています。たとえば「かしこまりました」(承知しました)、「少々お待ちください」(少し待ってください)、「こちらでございます」(こちらです)、「ごゆっくりご覧ください」(ゆっくり見ていってください)などです。
どれも敬語で少し難しく聞こえますが、意味が分かれば怖くありません。特に「ごゆっくりご覧ください」は、試着した服を買わなかったときにも店員が笑顔でかけてくれることばとして会話例に登場します。買わずに店を出ても失礼ではない、という日本の店の雰囲気がよく表れています。
どう反応すればいい?
基本は、何も言わずに店に入って大丈夫です。気になる場合は、軽く会釈(小さくおじぎをすること)をしたり、にっこりしたりするだけで十分気持ちが伝わります。MATCHAは、小さなお店なら「こんにちは」「こんばんは」と返してもよいと紹介しています。
「いらっしゃいませ」と言われた人が「いらっしゃいませ」と返すのは、店員側のことばなので不自然です。店を出るときに「ありがとうございました」と言われたら、「ごちそうさまでした」(飲食店の場合)や軽い会釈で応えると、感じのいいやりとりになります。
ヒント
- 「いらっしゃいませ」に返事は不要です。そのまま買い物や食事を始めてかまいません。
- 返したい気持ちがあるなら、軽い会釈や笑顔で十分です。小さな店なら「こんにちは」もOKです。
- 「いらっしゃいませ」と同じことばで返すのは避けましょう。店員が使うあいさつです。
- 飲食店で店員が見当たらないときに奥から「いらっしゃいませ」と聞こえたら、気づいてもらえている合図です。入口で少し待ちましょう。
- 飲食店を出るときは「ごちそうさまでした」と一言添えると、店の人に喜ばれます。